大和水銀と金メッキ謎①
奈良県宇陀市菟田野(うたの)にあった大和水銀鉱山と水銀の利用法の謎について書いてみます。
私が水銀鉱山の近くにある宇(う)太(た)小学校(全校生:363人)に通ってた時代、町の産業と題し、大沢の水銀鉱山を見学に行った記憶があります。水銀を入れた500ccのビンを持ってビックリ。「重もたい!」宇太小の運動場の地下は穴だらけとの事でした。
その年は、昭和39年(1964年)で東京オリンピックが10月10日~10月24日まで開催された年でしたので、工場長の話は、オリンピックの余韻があり、銅メダルを金メダルに変える話は、非常に印象に残りましたので皆さんに少し紹介します。
水銀の性質を利用して、古代人は、他の金属を鎔かし、アマルガムを作る方法を知っていたので、銅メダルは、金メダルに金メッキすることができたのです。
比重 | |
金 | 19.22 |
銀 | 10..50 |
銅 | 8.96 |
水銀 | 13.54 (20℃) |
鉄 | 7.87 |
また、通学時、この水銀の製錬(せいれん)によって発生する亜硫酸ガスの臭いで、鼻をふさいで走り抜けて家に帰った記憶があります。また、九州の炭鉱から採掘技術の方が働きに来られたので、宇太小に転向生が4名来ました。小蔵君や寺田さんが通学分団に入り友達になりました。そんなことで、当時は鉱山付近で採掘した粕(灰色の粘土)いじりで遊び、チェコスロバキアから輸入の鉱石の山から『赤色の辰砂(しんしゃ)』の見つけ合いをし、発見するとそれに喜び、今から考えると有害な遊びをしていました。
〔辰砂=赤色硫化水銀石(HgS)〕
菟田野の地で、水銀や赤色絵の具の原料である真(ま)赤土(ほに)がとれたとの伝えは古くからあります。万葉集に「大和の宇陀の真赤土のさ丹(に)つかば、そこもか人の我(わ)を言(こと)なさむ」(宇陀の赤土の赤い色が付いたなら、又人々が色々噂を立てるだろう)と読まれている他、最近では、県内の古墳から出土している朱(しゅ)の多くが宇陀地方産と同じ特徴があると考古学の研究で明らかにされています。
明治42年に岡山の人景山和民氏が大沢の畑で露頭を発見。「これは辰砂だ!!」と叫んでから明治以降、町内では大沢の「大和水銀鉱山」と駒帰(こまがえり)の「神(かみ)生(おい)水銀鉱山」が開鉱されました。この時代は次第に、軍需産業の様相を濃くする時でした。その中で日本の労働者不足が顕著になり、それを補う形で今から70年前の1939年、ここで121人の朝鮮人労働者が強制労働を強いられました。水銀は、爆弾に使用されたり、潜水艦や戦艦に貝殻がつかないように塗られたりしたりし、日中戦争に突入すると増産につぐ増産体制がしかれ、そのため多くの朝鮮人労働者が強制労働。敗戦を迎えると、其の多くが祖国に還りました。今でも大沢には私の同級生の金海君をはじめ、2世、3世の在日韓国人の方が住んでいます。